宮益坂の中腹に、御嶽神社があります。そもそも“宮益”という名称は、この神社、すなわち御嶽権現と、かつてはその隣にあった千代田稲荷のご利益にあやかったものとのこと。
入口の鳥居をくぐると案内板があります。御嶽神社の由緒が書いてあるのかと思いきや、明治天皇と書かれていて、あれ?ここ明治神宮じゃないよね??
これは境内にある「明治天皇御嶽神社御小休所阯」の石碑に関係する話。明治3年(1870)4月17日、明治天皇が駒場野練兵場で初めて観兵式を天覧されたとき、お輿とお馬を乗り換えるためにここで休憩されたとのこと。
昭和になってから、「東京市内に残る唯一の聖蹟」としての登録を求める住民運動が起こったそうです。そのかいあって、昭和12年(1937)4月5日には「明治天皇聖蹟」に指定され、昭和14年(1939)4月17日に聖蹟標識、つまり、この石碑の除幕式が執り行われたそうです。
御嶽神社は、大和国吉野の金峯神社の分霊をおまつりしており、祭神はあの日本武尊(ヤマトタケルノミコト)です。創建は元亀年間(1570~72)。甲州武田家の陪臣(ばいしん)である石田勘解由茂昌が持ってきた尊像を、衾無という沙門(仏教の修行僧)が宮を建ててまつったそうです。
社殿は戦争で焼失してしまいましたが、戦後の昭和55年(1980)に商工会館が建てられ、その建物の屋上に再建されました。それで、こんなに階段が続いているわけですね。長くて上り下りが大変(笑)。
境内は玉砂利がキレイにならされています。いざ参拝へ!
境内の参道左側に、宮益不動尊があります。
お堂の中の石像たち。1861年につくられた勢至菩薩、不動尊、青面金剛(しょうめんこんごう)がまつられているようです。
中をよーく見てみると、もう一体石像が!あなたはいったい何者ですか?
宮益不動と社務所の間には、松尾芭蕉の句碑「眼にかかる 時や殊更 五月富士」(めにかかる ときやことさら さつきふじ)がありました。芭蕉さんもこの坂を上り下りして、富士山を見たのでしょう。
拝殿前の神使像は、珍しいことに狛犬ではなく日本狼です。
ちなみにこの神社は、「御酉(おとり)さま」とも呼ばれており、毎年11月の酉の日に、境内で酉の市が盛大に開かれるとのこと。
ようやく拝殿までたどり着けました。拝殿の左側に人の顔がチラチラ。気になってしょうがないので確認。
碑文によると、顔のレリーフが彫られているこの人物は、小林總一郎という宮益町の町会長と御嶽神社の崇敬会長だった方だそうです。社殿の再建は、この方のご尽力によるところが大きかったようです。
拝殿左側の一番奥には、文字の刻まれた石碑が。宇田川麗哉の句碑で、刻まれていたのは、「名月や 御嶽能苑に 讃え佇つ」の句と署名でした。
イト・タクヤ
フリーライター。歴史、神社・仏閣めぐりが好き。基本は部屋に引きこもり、たまに渋谷区内を徘徊。「普段は渋谷の街を歩くことのないシブヤ初心者」として、常にフレッシュな視点からの執筆を心掛けている。というか、事実そうなので、そういう文章しか書けないというのがホンネ。シブヤ散歩新聞では、シブヤ坂散歩をはじめ、渋谷の街の歴史や文化等にまつわる記事を担当している。
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