渋谷ヒカリエを出て渋谷駅から青山通り(国道246号)へと抜けると、そこが宮益坂です。今回はこの宮益坂を紹介します。
坂道を上る前に、ちょっと寄り道。宮益商店街が生み出したマスコットキャラクターの“ホープくん”をご紹介。以前は渋谷駅東口のパティオ宮益という広場にいたそうですが、工事のため宮益坂下まで引っ越して来たようです。
ハチ公バスが通る、宮益坂下の交差点。現在の姿からは想像もつきませんが、馬場孤蝶『明治の東京』や田山花袋『東京の三十年』によると、宮益坂下は明治時代は水田が広がり、わらぶきの家が建つ田舎っぽい場所だったようです。
宮益坂下の交差点の近くには標柱があり、それによると坂の名前は宮益町という町名にちなむもので、かつては「富士見坂」と呼ばれていたようです。また、この坂のあたりは矢倉沢往還(大山道中)にある江戸市中と郊外農村の接続点として小さな商人町を形成していたとのこと。旅人の休憩所として茶店や酒亭が賑わい、古今稀有の大酒呑みと呼ばれた地黄坊樽次こと茨木春朔という人物の『水鳥記』なる書物には、酒飲みの「難所」として素通りしかねる所としてあげられているとか。
反対側の歩道の花壇には「渋谷区近代学校教育発祥の地」と題された説明板が。
これによると、明治8年(1875)に開校した渋谷小学校は、渋谷区で初めてつくられた公立小学校。その校舎の建設は中渋谷村の者たちの尽力や土地の提供によるもので、村の予算が拠出されるまでは、その一人が所有する渋谷川にあった水車の利益で学校運営をしていたとのこと。昔の日本では学校ひとつ建てるのにそうとう苦労したんだなぁ、とシミジミ。最初の教員は校長先生を含めて3人、生徒84人。今では考えられませんが、この辺もずいぶん田舎だったんですね。
坂の真ん中あたりには、渋谷郵便局があります。
建物を見上げたことで気付いたのですが、ケヤキの街路樹がけっこう立派で、日差しを遮ってくれています。
坂を登って行くと、坂上にも標柱が。これによると、この辺りはかつて渋谷新町と呼ばれており、正徳3年(1718)に渋谷宮益町と改称したとのこと。ということは、「宮益坂」もそれ以後についた名称なのでしょう。
坂上の交差点までやってきました。明治になると、まだ山手線が開通する前に、坂上から新橋まで走る定期馬車が出ていたとのこと。坂下は田舎でも、坂上は文明開化の波に乗っていたんですね。
歩道橋を渡ってみます。この坂は江戸時代には「宮益坂」ではなく「富士見坂」と呼ばれていたわけですが、その名の通り、富士山の眺望がすばらしい名所だったそうです。昭和26年に奥野信太郎が書いた随筆『道玄坂附近』にも、宮益坂の頂上から道玄坂のかなたに富士の姿が見えることがあると書かれています。今はもう、歩道橋に上っても見えませんが……。
その代わり、左手の方向にはズラリとならぶ摩天楼と、その先に渋谷警察署の堅牢なビルが見えます。かつては富士山が旅人の行末を見守り、いまは警察署が街の治安を守っている、といったところでしょうか。渋谷の変遷を感じる、宮益坂でした。
イト・タクヤ
フリーライター。歴史、神社・仏閣めぐりが好き。基本は部屋に引きこもり、たまに渋谷区内を徘徊。「普段は渋谷の街を歩くことのないシブヤ初心者」として、常にフレッシュな視点からの執筆を心掛けている。というか、事実そうなので、そういう文章しか書けないというのがホンネ。シブヤ散歩新聞では、シブヤ坂散歩をはじめ、渋谷の街の歴史や文化等にまつわる記事を担当している。
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