ふたたび金王八幡神社へ。
どうやら、この神社には文化財がたくさんあるようです。
現在の社殿と門は江戸時代につくられたもので、江戸初期の建築様式を残す重要なものとのこと。これは3代将軍・徳川家光と関係があります。家光がまだ幼かった頃、つぎの将軍は長男の家光ではなく次男だろうという噂が江戸城内に流れ、それを心配した乳母の春日局と守役の青山忠俊が相談して、当社に祈願。駿府に引退していた徳川家康にも訴えました。その後、家康が家光を後継者と決定したので、祈願成就の礼として社殿と門が造営されたそうです。
いわれてみれば社殿は家光が祖父の家康を祀るために建てた日光東照宮に、なんとなく似ている気がしてきます。
社殿の右側には、渋谷区指定の天然記念物である金王桜があります。金王桜は、金王丸自身の手植えとも、頼朝が金王丸を偲んで植えたとも言われています。また、長州緋桜の八重といわれますが、八重と一重がまざって咲く珍しい桜の木です。お花見のシーズンにぜひ見てみたいですね。
桜の木の隣には、松尾芭蕉の「しばらくは 花のうへなる 月夜かな」の句を刻んだ石碑が建っており、この句碑は広重の錦絵「江戸百景」にも金王桜と一緒に描かれているそうです。
他にも、金王丸関連では「金王丸御影堂」という建造物があります。この中には金王丸の自作と伝えられる木像があり、彼が17歳のときに源義朝に召出された際、嘆き悲しむ老母に与え、「これからはこの像を自分と思い慈しんでください」と言ったというエピソードがあります。
拝殿から御影堂への途中に宝物館があります。館内には、区指定有形民俗文化財である2つの「大江山鬼退治之図」と3つの「算額」などがあります。
これは室町時代の『御伽草子』にある「大江山の酒呑童子」の物語に基づく絵馬です。「討ち入り場面」と「鬼退治場面」とのこと。
算額というのは、江戸時代に日本で独自に発展した「和算」という算術の問題と、その解法を公衆の目に付くように掲げたもの。その内容は現在の微分・積分に属する高等数学です。ここにあるのは、和算の創始者ともいうべき関孝和の流れを汲む3人の和算家によるもの。興味がある方は、実際に問題を解いてみてもいいかも。他にも、いわれのある神輿など、様々な展示物がありますので、ぜひ一度ご覧になることをオススメします。
境内の左手には玉造稲荷神社も祀ってあります。お稲荷さまは商売繁盛や五穀豊穣の神様ですが、標識によると、かつては渋谷の地も稲作が盛んであったために祀られたようです。
その隣には御嶽神社も。これは祭神のヤマトタケルが武道の守護神として、武門の誉れ高き渋谷氏の居館跡に祀られたようです。
ちなみに、このお社の前にある狛犬は、実践女子学園の創始者・下田歌子を祀る香雪神社のものでしたが、戦後GHQにより廃祀されたためここに寄進されました。
境内をひととおり見て回り、神社の外に出ると大鳥居があります。
この大鳥居をくぐると、T字路になっています。左右に横切る道路が八幡通りで、このあたりから渋谷川に向かう下り坂が八幡坂です。
八幡坂の傾斜はこんな感じです。
坂を下っていくと明治通りにぶつかりますが、ここに標識板がたっています。右側の並木橋を渡る細い道が、かつては「鎌倉道」と呼ばれており、鎌倉まで至る道だったようです。鎌倉幕府の御家人となった渋谷氏も、「いざ鎌倉」の事態には、この道を通って将軍のもとに馳せ参じたのでしょうか? ちなみに、標識の左側は八幡通りで代官山駅までたどり着けます。金王八幡への初詣へ行くのであれば、あえて代官山駅から八幡通りを歩き、そして八幡坂を上り大鳥居をくぐって参拝するのもいいでしょう。
イト・タクヤ
フリーライター。歴史、神社・仏閣めぐりが好き。基本は部屋に引きこもり、たまに渋谷区内を徘徊。「普段は渋谷の街を歩くことのないシブヤ初心者」として、常にフレッシュな視点からの執筆を心掛けている。というか、事実そうなので、そういう文章しか書けないというのがホンネ。シブヤ散歩新聞では、シブヤ坂散歩をはじめ、渋谷の街の歴史や文化等にまつわる記事を担当している。
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