今回は八幡坂とその名前の由来となった金王八幡神社を紹介したいと思います。
御祭神は「八幡様」こと誉田別命(ほんだわけのみこと)で、武芸を司る神様です。
前回紹介した渋谷金王丸にゆかりのある神社で、もともとは「渋谷八幡宮」と呼ばれていたのが、金王丸の人気にあやかって「金王八幡宮」と呼ばれるようになったといいます。ちなみに、金王丸の両親である重家夫妻が、子が授かるようにと祈願した八幡宮がこの神社です。
また、この神社のある一帯は、このあたりの領主、渋谷氏の居館であった渋谷城跡であり、拝殿前にその砦に使われていたという石が置いてあります。「渋谷」という地名の由来にはいろんな説があるのですが、この渋谷氏にまつわる伝説もあり、それは次のようなものです。
ときは平安時代、谷盛庄の領主である河崎基家の子である河崎重家は、京の都で御所の警備にあたっていた。ある晩のこと、2人の盗賊が侵入し、衛士たちがおそれをなして抵抗できないなか、重家だけが賊に立ち向かい1人を斬り倒し、もう1人に縄をかけて捕らえてしまった。その賊の名を問うと、「我こそは相模国の住人、渋谷権介盛国」と答えた。堀河院は重家の武勇を賞賛して「今より河崎をやめ、渋谷を名のれ」と仰せられた。これにより河崎重家は渋谷重家と名を変えてその領地である谷盛庄が渋谷庄に変わった。
伝説の域は出ませんが、道玄坂の名前の由来が山賊という説があったように、渋谷の語源が盗賊という説があるのはおもしろいですね。
この神社の創建は、平安時代中期の寛治6年(1092)。「八幡太郎」こと源義家が奥羽での後三年の役から凱旋中、その勝利はこの地の領主であり渋谷氏の祖でもある河崎基家が信奉していた八幡神の加護によるものだとして、基家が持っていた秩父妙見山の月の御旗を乞い求め、八幡宮を勧請したのが始まりとのことです。その際、同社を守護する別当寺として親王院(東福寺)も建てられたとされています。
その別当寺として建てられたお寺、「東福寺」は金王八幡神社に隣接しているので、ちょっと覗いてみました。
このお寺の梵鐘の銘文には「渋谷の旧号谷盛庄は親王院の地にして七郷に分る。渋谷郷はその一なり」とあることから、渋谷の旧名が「谷盛庄」であったことがわかります。こうした記述から貴重な史料であるとされ、東福寺梵鐘は渋谷区指定有形文化財となっています。
建久2年(1191)に源頼朝が寺の堂宇の修復にあたり、この時から「渋谷山常照院東福寺」と称したそうです。つまり、東福寺は「渋谷山」の号をもつ寺院ということになります。
その2へ続く。
イト・タクヤ
フリーライター。歴史、神社・仏閣めぐりが好き。基本は部屋に引きこもり、たまに渋谷区内を徘徊。「普段は渋谷の街を歩くことのないシブヤ初心者」として、常にフレッシュな視点からの執筆を心掛けている。というか、事実そうなので、そういう文章しか書けないというのがホンネ。シブヤ散歩新聞では、シブヤ坂散歩をはじめ、渋谷の街の歴史や文化等にまつわる記事を担当している。
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