江戸時代の有名な学者の名前に由来する坂が渋谷にあるとのことで、今回は東京都立広尾高等学校の前までやって参りました。
江戸時代の儒学者・服部南郭の名を冠する坂
広尾高校正門前から、五差路になっている「広尾高等学校前」交差点の横断歩道を渡ると、右手の建物の前に標識板があります。
これは「服部南郭別邸跡」の説明板です(東京都渋谷区東2丁目10―4)。ここに江戸中期の古文辞学派の儒学者である服部南郭(はっとり・なんかく)が別邸とした「白賁塾(はくふんじゅく)」がありました。ちなみに、本邸は芝の赤羽にあったそうです。
出典:肖像集 5. 服部南郭・狩谷懐之(JPEG表示100%)*1
服部南郭は、天和3年(1683)京都に生まれます。14歳で江戸に出て、16歳のときに幕府の実力者である柳沢吉保(やなぎさわ・よしやす)に和歌と絵画をなりわいとして仕えます。
そのかたわら、やはり吉保に仕えた学者で古文辞学の祖である荻生徂徠(おぎゅう・そらい)に師事して儒学を学びます。漢詩文を得意とし、経学に優れた太宰春台(だざい・しゅんだい)とともに、徂徠門の双璧とまで言われるようになります。著書には『南郭文集』『大東世語』 などがあるとのこと。
34歳で職を辞し、ここにあった別邸「白賁塾」で後進の育成にあたるわけですが、その温厚な人柄を慕う者が数多く訪れたといいます。
南郭は宝暦9年(1759)に77歳で亡くなりますが、嗣子が早世していたので門人を後嗣として、その子孫が昭和まで住んでいたとのことです。屋敷内には南郭が京都から移植したという高野槙(こうやまき)があり立派な巨木だったとのことですが、のちに切り倒されてしまい、現在その姿を見ることはできません。
今となっては、渋谷の地で服部南郭を偲ぶことができる名残りは、その名を冠する「南郭坂」だけとなっているようです。
▲さて、その「南郭坂」は、この別邸跡からくだって行く坂道なのですが、別名「富士見坂」とも呼ばれていたとのこと。宮益坂と同様、かつては富士山が見えたようですが、残念ながら、いまは高層ビルなどの建築物しか見えません。
▲坂道をくだってみます。そこそこ急な坂道で、傾斜はこんな感じです。
▲三叉路になっているところから明治通りまでは、ゆるやか坂道がつづきます。
▲明治通り近くには、伊藤稲荷神社があります。むかしは別の場所にあった渋谷氷川神社の境外末社であり、もともとは地元の豪族・伊藤某の邸内社だったとの説もありますが、詳しいことはわからないとのこと。
▲境内は広くありませんが、拝殿前に朱塗りの鳥居が3つ並んでいます。
▲引き返して再び広尾高校前まで登ってみます。登下校の時間ではなかったので、高校生の姿は見かけませんでしたが、ひょっとしたら、この学校の生徒たちの通学路として使われているのかも。
ちなみに記者の高校生時代、日本史の教科書で荻生徂徠や太宰春台については勉強した覚えはあるのですが、服部南郭先生のご尊名は存じ上げませんでした。まだまだ勉強不足でございます。
できれば、ここ広尾高校の生徒さんたちには、自分たちの通う学校の前にある坂道のことを知ってもらい、その由来となった人物の名を長く後世に伝えてほしい。今回、この坂道をとおして服部南郭のことを知り、そんなことを強く願いました。
【註】
*1.写真は「国立国会図書館デジタルコレクション」のアーカイブ「肖像集5. 服部南郭・狩谷懐之」の画像を加工したものです。
【参考文献】
『渋谷区の歴史』(東京ふる里文庫11、名著出版、1978)
『渋谷区史跡散歩』(東京史跡ガイド、学生社、1992)
『江戸東京坂道事典』(新人物往来社、2003)
【参照URL】
「国立国会図書館デジタルコレクション」http://dl.ndl.go.jp
イト・タクヤ
フリーライター。歴史、神社・仏閣めぐりが好き。基本は部屋に引きこもり、たまに渋谷区内を徘徊。「普段は渋谷の街を歩くことのないシブヤ初心者」として、常にフレッシュな視点からの執筆を心掛けている。というか、事実そうなので、そういう文章しか書けないというのがホンネ。シブヤ散歩新聞では、シブヤ坂散歩をはじめ、渋谷の街の歴史や文化等にまつわる記事を担当している。