場所が猿楽塚に近いこともあり、時代が前後してしまいますが、古墳の次は弥生時代の遺跡である猿楽古代住居跡公園へ。
代官山駅近くの公園で見る、弥生人の生活
東急東横線・代官山駅にほど近い猿楽古代住居跡公園(東京都渋谷区猿楽町12―10)。ここは、渋谷で最初に発見された弥生時代の遺跡で、猿楽塚と同様に、渋谷区指定史跡・文化財になっています。
▲公園の真ん中あたりに、なにやら干上がった池らしきものと説明板が立っています。
池ではなく、これこそがまさに猿楽古代住居跡です。約2千年前の弥生時代後期のものと推定されています。昭和53年(1978)に古代住居の建物を復元したものの、残念ながら不審火により焼失してしまい、現在は住居跡を被覆して保存しています。
もともと、ここはマンションを建設する予定だったのですが実際にはこのとおり遺跡のある公園となっています。そこには影の功労者がいて、それは近所で「ふじや酒店」を営んでいた藤野次郎氏でした。
氏は昭和31年(1956)に工事現場で発見した出土品を大切に保管しており、猿楽小学校教諭・岡本吉晴氏の勧めもあり、国学院大学の樋口清之教授に鑑定してもらいました。
するとそれは弥生時代後期の土器であり、籾殻のあとが残っていることから、2千年もの大昔に渋谷の地で稲作がなされていることが判明したのです。
昭和30年代後半、渋谷区では樋口教授を中心に『新修渋谷区史』(昭和41年〔1966〕刊行)の編纂が進められていましたが、猿楽遺跡の発見により渋谷にも弥生時代の遺跡があることが判明し、急きょ中巻末尾に猿楽遺跡の項目を加筆することになったとか。
その後、区が猿楽小学校の隣接地を買い上げたのをきっかけに、昭和52年(1977)に区教育委員会はその調査を国学院大学考古学第一資料研究室に委託して本格的な発掘調査が行われ、例の住居跡が発見されたわけです。
そして翌年、やはり樋口教授の指導のもと弥生時代の住居がここに再現されましたが、先述したとおり焼失してしまい、今は見ることができません。なお、住居跡は他にもいくつか発見されており、なかには通常のものより大型だったため、ただの住宅ではなく集会所のようなものだったのではないかと推定されているものもあるとか。
ちなみに樋口清之教授ですが、『シブヤ散歩新聞』を創刊当初からご覧くださっているかたは、この名前に聞き覚えがあるかもしれません。記念すべき「渋谷坂散歩No.1道玄坂」で紹介した渋谷マークシティ前の「澁谷道玄坂の碑」の碑文を書かれたお方です。
さて、発掘された土器は壺、甕(かめ)、高坏(たかつき)などの破片ばかりだったそうですが、その模様から久ヶ原式、弥生町式、前野町式に属することがわかったとのこと。
住居跡の左側には発掘した遺物のレプリカなどを展示しているショーウィンドウの建物があります。展示自体に説明がないので推測するしかないのですが、左から順に見ていきたいと思います。
▲まずは古代の渋谷の地形をかたどったと思われるジオラマ。
▲その隣にある写真はおそらく復元した住居。
▲高坏?
▲壺?
▲甕?
▲稲を刈り取るための道具?
▲器に盛られた木の実はあるが、籾殻は見あたらず。お米は弥生時代を縄文時代と画する重要な作物のはずですが、それが展示されていないのはなぜでしょう?その前にからの容器があるので、この中に籾殻があったのかもしれません。
ところで、公園の奥になにやら整然と並ぶ、仏像らしきものが。ずっと、気になっていたので、調べてみることに。
廿三夜塔、道しるべ、庚申塔から見えてくる江戸時代に渋谷で暮らした庶民の信仰
猿楽古代住居跡公園の奥に並ぶ石造りの仏像らしきものたち。
その右上、公園と猿楽小学校を隔てるフェンスに、渋谷区教育委員会による説明書きが貼られていました。
どうやら「廿三夜塔(にじゅうさんやとう)」、「道しるべ」、「庚申塔(こうしんとう)」とのことです。どの石造物がどれにあたるのか、じっくり見て行きたいと思います。
▲まず一番右にある一番大きいものが青面金剛(しょうめんこんごう)の彫られた庚申塔です。青面金剛の下には三猿も。
庚申塔は、江戸時代の講中(こうじゅう)という民間信仰グループのひとつである庚申講が、60日ごとにめぐってくる庚申の日に集まって念仏を唱えて夜を明かす「庚申待」の結果として建てたものとのこと。
▲青面金剛の左に「延宝五乙未年十月十□日造立」(□は欠字や不明な字。以下同様)とあるので、江戸時代の1677年につくられたものであることがわかります。
▲右から2番目にあるのが廿三夜塔です。
廿三夜塔も同様に、講中のひとつである廿三夜講がつくったもので、こちらは23日の夜に集まって月の出を待ち、延命長寿・無病息災・家門繁栄などを願って月を拝む「廿三夜待」というイベントを記念して建てたものです。
▲この廿三夜塔の正面には勢至菩薩が掘られており、その右側には「奉□廿三夜待一結衆 武州豊島郡中渋谷村」、左側には「延宝三乙卯年十一月二十三日」という文字が刻まれており、江戸時代の1675年に中渋谷村の人々が建造したことがわかります。
▲真ん中にあるのも青面金剛の彫られた庚申塔です。よく見るとその下にも三猿が。
その左側には「元禄十六癸未年十一月十八日」とあり、こちらは同じ江戸時代でも少し時代が下った1703年のもの。
▲それはさておき、隣の左から2番目のものが道しるべということになります。石の傷みが激しく、たいへん痛ましいのですが、どうやらお地蔵さまが彫られていたようです。
▲文字も判読がむずかしく、かろうじて「左目黒道」はわかりますが、「右□道」は、具体的な道の名前がわからず。
▲残った一番左のものは、おそらく三猿のうち「聞かざる」だけが彫られている庚申塔になります。
▲その左右に「宝永八卯天四月朔日」と彫られており、1758年に建造された模様です。
というわけで、最後に確認しておきますと、右から順に庚申塔(青面金剛)、廿三夜塔(勢至菩薩)、庚申塔(青面金剛)、道しるべ(地蔵)、庚申塔(三猿の「聞かざる」?)ということになります。
弥生時代の遺跡ということで取材した猿楽古代住居跡公園。実際に散歩して訪れてみると、弥生時代の生活だけでなく、江戸時代の庶民の信仰についても知ることができました。それぞれの時代に渋谷で暮らした人々について知るのに絶好のスポットです。代官山駅付近にいらした方は、ぜひお立ち寄りください。
【参考文献】
『渋谷区の歴史』(東京ふる里文庫11)名著出版、1978
『渋谷区史跡散歩』(東京史跡ガイド13)学生社、1992
『渋谷学叢書2 歴史のなかの渋谷』(國學院大學 研究開発センター渋谷学研究会)雄山閣、2013
『ふるさと渋谷』(渋谷郷土研究会)1994
イト・タクヤ
フリーライター。歴史、神社・仏閣めぐりが好き。基本は部屋に引きこもり、たまに渋谷区内を徘徊。「普段は渋谷の街を歩くことのないシブヤ初心者」として、常にフレッシュな視点からの執筆を心掛けている。というか、事実そうなので、そういう文章しか書けないというのがホンネ。シブヤ散歩新聞では、シブヤ坂散歩をはじめ、渋谷の街の歴史や文化等にまつわる記事を担当している。