桜の花もすっかり散ってしまい、お花見の季節も終わってしまいましたが、渋谷にはかつて「桜横町」とか「桜通り」と呼ばれた道があるとのことで、散歩してみました。
加藤周一の詩に詠まれた渋谷の下町、いまは学生たちの通学路
前回紹介した「八幡坂」を上って行き、金王八幡宮の大鳥居前のT字路の少し上の右手に入る道で、この八幡通りから常磐松小学校正門へ通じる道をむかし「桜横町」と呼んでいたそうです。
通りに入ると、学生たちの姿がチラホラと見受けられます。
通りに入って歩いて行くと、左になにやらモニュメントがあります。
この歌碑には「さくら横ちょう」と題された加藤周一の詩が刻まれています。
春の宵 さくらが咲くと
花ばかり さくら横ちょう
想出す 恋の昨日
君はもうここにいないと
ああ いつも 花の女王
ほほえんだ夢のふるさと
春の宵 さくらが咲くと
花ばかり さくら横ちょう
加藤周一(かとう しゅういち)は、当時の東京市渋谷区金王町出身の文筆家で、この通りの先にある常磐松小学校の卒業生です。福永武彦、中村真一郎と親しく、共著である『一九四六 文学的考察』が文壇デビューのきっかけとなりました。
「さくら横ちょう」は、加藤周一が創作した新定型詩のひとつで、彼が実際に暮らしていたこの界隈を詠んだもの。のちに中田喜直と別宮貞雄が曲を付けたことで有名となりました。
モニュメントのわきにQRコードが張り出されておりますので、興味がある方は、こちらでもお調べください。
さて、この通りを進んでいくと、中ほどがゆるやかな坂道になっています。
坂下からパシャ!
勾配はこんな感じです↑。
さらに進んでいくと、終着点の常磐松小学校があります。前述したように加藤周一が通っていた学校です。加藤周一は、その自伝的回想録である『羊の歌』で次のように記しています。(以下、『羊の歌―わが回想―』岩波新書、p.57~58より引用)
八幡宮から学校までの道には、両側に桜が植えられていた。その桜は、老木で、春には素晴しい花をつけた。桜横町とよばれたその道には、住宅の間にまじって、いくつかの商店もあり、そこで子供たちは、鉛筆や雑記帳を買い、学校の早く終った時には、戯れながら暇をつぶしていた。からたちの空地のように町から離れてもいず、八幡宮の境内のように男の子だけの遊び場でもなく、桜横町には、男の子も、女の子も、文房具屋のおかみさんも、自転車で通るそば屋の小僧も、郵便配達もいたのである。学校に近かったから、道玄坂などとはちがって、半ば校庭の延長のようでもあり、しかし校庭とはちがって、町の生活ともつながっていた。私は二つの世界が交り、子供と大人が同居し、未知なるものが身近かなるものに適度の刺戟をあたえるその桜横町のひとときを好んでいた。
道の両側にあった桜は、幕末の頃このあたりに薩摩藩島津侯の屋敷があり、そこへの通り道だったため植えられたのではないかとも言われています。いずれにせよ、この桜の木々は、戦災により焼失してしまいました。
しかし、渋谷駅から国学院大学への通学路にあたるためでしょう、現在、多くの学生がこの通りを行き交います。かつて「桜横町」を美しく彩った桜並木を見ることはできませんが、みごと「サクラサク」こととなった学生さんたちの姿を、毎年、春になれば見ることができるのです。
【余談】
本稿で紹介した歌碑の写真撮影を最初にしたのは、実はだいぶ前のことなのですが、そのとき、ちょっとした思い出があります。近隣住民の方にお声がけいただいたのです。
「写真、一緒に(映るように)とろうか?」
「いえ、大丈夫です。わざわざ、ありがとうございます!」
謝辞を述べると、その方は笑顔で去って行かれましたが、新鮮な驚きに見舞われました。おそらくは観光客、もしくは学生と思われたのでしょうが、それにしてもシブヤの各地で写真撮影をしていて、こういったお声がけを頂いたのは、そのときが初めてでした。引用した『羊の歌』の文章から感じた下町情緒は、今でもこの界隈に残っている。そう感じました。
【参考文献】
『新 渋谷の文学』(渋谷区教育委員会、2005)
『渋谷の文学』(渋谷区教育委員会、1978)
イト・タクヤ
フリーライター。歴史、神社・仏閣めぐりが好き。基本は部屋に引きこもり、たまに渋谷区内を徘徊。「普段は渋谷の街を歩くことのないシブヤ初心者」として、常にフレッシュな視点からの執筆を心掛けている。というか、事実そうなので、そういう文章しか書けないというのがホンネ。シブヤ散歩新聞では、シブヤ坂散歩をはじめ、渋谷の街の歴史や文化等にまつわる記事を担当している。