♪春の小川は、さらさら行くよ
岸のすみれや、れんげの花に
すがたやさしく、色うつくしく
咲けよ咲けよと、ささやきながら
冒頭に掲げたのは、有名な『春の小川』の歌詞です。この歌は高野辰之(たかの たつゆき)作詞・岡野貞一(おかの ていいち)作曲で、平成19年(2007)には文化庁とPTA全国協議会により「日本の歌百選」にも選定されています。誰しも子供のころに一度は耳にしたことがあるのではないでしょうか?
実はこの歌のモデル、かつて渋谷区を流れていた河骨川(こうほねがわ)だと言われています。
作詞者である高野辰之博士は長野県出身の国文学者で、明治42年(1909)から代々木山谷の地に暮らしていたそうです。当時そこには河骨川という小川が流れており、春になるとメダカが泳ぎ回り、そして岸辺には実際にスミレやレンゲの花が咲いたといいます。こうした風情を愛した高野博士は、しばしば娘さんと一緒に川辺を散策し、そのイメージをもとに歌詞を作り、大正元年(1912)に発表しました。こうして誕生したのが『春の小川』なのです。
そういった意味で、『春の小川』は“散歩が生み出した歌”と言えるかもしれません。
代々木公園の西側、代々木公園参宮橋門から井の頭通りを渡ったところにある公園の裏側、小田急線手前には「春の小川記念碑」があります(代々木5丁目65)。
石碑の裏側の説明文によると、この歌碑は地元の篤志家である伊井勝美氏が上述した事績を後世に伝えるために建造し渋谷区に寄贈したもので、表側に刻まれた『春の小川』の歌詞は高野博士の御息女である弘子さんの書によるもの。
その碑面にある歌詞ですが、以下のようになっています。
♪春の小川は、さらさら流る
岸之すみれや、れんげの花よ
にほひめでたく、色うつくしく
咲けよ咲けよと、ささやく如く
お気づきでしょうか?冒頭に掲げたのが口語体なのに対し、歌碑は文語体になっています。これは戦後になって文部省の音楽教科書に掲載された歌詞が口語体に改められたため。これにより人々が口ずさむ『春の小川』の歌詞は、世代によって異なるようです。はたして皆さんは、どちらの世代でしょうか?
残念ながら、モデルとなった河骨川は先の東京オリンピックを機に暗渠化されてしまったとのこと。歌碑の裏手には、細い道が小田急線の線路に沿って南北へと続いており、ところどころにマンホールが。ひょっとしたら、この下を流れているのかも。
歌碑の近くには、歌の名を冠した「はるのおがわコミュニティパーク」、さらにそのなかに子供たちのための「渋谷はるのおがわプレーパーク」という公園があります。
現在、川の流れを見ることはできませんが、この公園で見かける親子の姿は、かつて河骨川のほとりを散策して今に残る名歌を誕生させた高野辰之博士と、その娘さんの姿を彷彿とさせます。
歌詞が文語体から口語体に変わっても、世代を重ね、時代を越え、日本の名歌である『春の小川』を歌い継いでいってほしいと感じました。
<余談>
西参道から代々木駅に至る道の途中、渋谷区代々木3丁目3-2の地点に、高野辰之住居跡の標識があります。興味がある方はこちらも要チェック!
この標識によると春の季語をタイトルにもつ『朧月夜(おぼろづきよ)』の歌も博士の作詞とのこと。気になったので調べてみたところ、作曲は『春の小川』と同じく岡野貞一氏。ちなみに、この標識には書かれてはいないのですが、同じ季節の『春が来た』も高野辰之作詞・岡野貞一作曲です。他にも『故郷(ふるさと)』『紅葉(もみじ)』などが、この2人の手に成るもの。もしかすると、有名な童謡のほとんどが高野辰之&岡野貞一コンビの手に成るものでは?と思えてきます。
イト・タクヤ
フリーライター。歴史、神社・仏閣めぐりが好き。基本は部屋に引きこもり、たまに渋谷区内を徘徊。「普段は渋谷の街を歩くことのないシブヤ初心者」として、常にフレッシュな視点からの執筆を心掛けている。というか、事実そうなので、そういう文章しか書けないというのがホンネ。シブヤ散歩新聞では、シブヤ坂散歩をはじめ、渋谷の街の歴史や文化等にまつわる記事を担当している。